「湘南ベルマーレ」の部屋



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ベルマーレとの出会い

 今現在、J2リーグという非常に厳しい環境の中、J1リーグ復帰を目指す我らが「湘南ベルマ
ーレ」・・・。私とベルマーレとの出会いについてお話します。

 湘南ベルマーレの母体は同業者の皆さんにもお馴染みのゼネコン「フジタ」の運営する「フジ
タFC湘南ベルマーレ」でした。その後Jリーグ昇格時、スタジアムが平塚市内に属する事によ
りJリーグからの指示があり市町村名で名乗ることになり「ベルマーレ平塚」へと名称が変わり
ました。その後フジタが経営難により再編成が行われ、ホームタウンも平塚市に加え厚木市
伊勢原市大磯町小田原市寒川町茅ヶ崎市二宮町秦野市藤沢市まで拡大し、現在
の名称「湘南ベルマーレ」へと変わりました。

 管理人がベルマーレと出会ったのは「フジタFC湘南ベルマーレ」の当時です。地方の大学に
いた私は(たしか夏休み?)地元平塚へ帰ってきて会員登録した覚えがあります。当時のベル
マーレは「3点取られたら4点取ります」みたいな感じで失点を恐れない全員攻撃のチームでG
K以外全員が1得点以上はゲットしていたことからもそのスタイルがよく解ります。まさに「湘南
の暴れん坊」とのキャッチコピーに相応しい名チームでした。その後ジュビロ磐田を下しぶっち
ぎり優勝でJリーグ昇格を決めたベルマーレ。平塚競技場も突貫工事でそれまでの芝生席が
バックスタンドと立ち見席へと変わり18500人収容のスタジアムへと変貌しました。

 Jリーグ昇格を決めたベルマーレは新シーズン前に壮行試合として、名門サントスFCと横浜
スタジアムで、名門コリンチャンスFCと東京ドームで、それぞれ行われました。横浜スタジアム
へ向かう途中、運命的な人に出会いました。JR平塚駅で「今日は頑張りましょう!」と見ず知ら
ずの方が声を掛けてくれたのです。その日一人で寂しかった私は後退りし(笑)、「今日僕一人
なんですよ・・。」とお返事しました。この人が湘南ローズの岸さん(リンクページ参照)だったの
です。

 それからは岸さんの家に遊びに行かせてもらう機会も多くなり岸さんから一つの提案がされ
ました。「レレレ隊」の誕生です。元ベルマーレ現アントラーズの名良橋選手は当時「レレレの
おじさん」と呼ばれていたらしいのです。ピッチの上を全速で駆け抜ける時「シャカシャカ・・・」と
音がするからとの由来です。ベルマーレの最大の売りは全員攻撃だという結論から「攻撃する
ベルマーレDFを応援する隊」とのキャッチフレーズになり代表者は岸さん、隊長は私で募集を
募り「レレレ隊」はスタートしました。その後、横断幕を作成しイラストを浜本ひろし先生にお願
いしました。(管理人は高校時代から「まんがスポーツ」という雑誌の愛読者でその当時から浜
本先生のファンでした。)

 その当時知り合った「ビール王子」は私の尊敬する人物の一人「府川光一さん」の幼馴染み
だとか・・・!この世は広いようで狭い(笑)。その後、隊員数は50名前後までになりました。

 「レレレ隊」はその後「愉快痛快暴れん坊湘軍」にバトンタッチし現在に至っています。なぜ変
わったのか?については「愉快痛快暴れん坊湘軍ホームページ」にある「湘軍家の歴史」をご
参照下さい(笑)。




骨になってもベルマーレ

 ベルマーレは一時期、存続の危機に立たされました。私はベルマーレスタッフや選手の皆さ
んと毎晩、平塚駅前でビラ配りと(鍛冶屋仕込みの大声!?で)PR活動を手伝っていました。

 そんなある日の事、喪服を着て斎場への誘導をされている方が私に声を掛けてくれました。
「俺の友達がよう・・。死んじまったんだ。奴はベルマーレが大好きだったからよ・・・。最後にベ
ルマーレの帽子を被せてやったんだ!」その言葉を耳にして私は思いました。「天国へ行って
もベルマーレを応援してくれる人が現れたんだ!」と・・・・。

 私も骨になるまで・・いや、「骨になってもベルマーレサポーターだ!」と心の中で呟きました。







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